(社会新報5月15日号より)
今年の5月15日は1972年に沖縄県が本土に復帰してから53年目となる。沖縄県は、第2次世界大戦で本土決戦を遅らせるための「捨て石」とされて県土全体が戦場となり、凄惨(せいさん)な地上戦で20万人が犠牲となった。戦後も27年間にわたり米軍の施政権下に置かれた。日本復帰後も、広大な米軍基地の存在や日常的に発生する騒音や環境破壊、米軍人・軍属による事件・事故などによって、県民生活が圧迫され続けてきた。
6次にわたる振興計画等によって本土との格差是正がはかられてきたが、1人当たり県民所得はいぜん全国最下位の水準だ。こうした状況や経緯もあって、県民の基地問題や平和に関する意識は高く、かつての戦争の傷も根深く残る。
そのなかで、この5月3日に那覇市で開かれた憲法シンポジウム(県神社庁、県神道政治連盟、県日本会議等主催、自民党県連共催)に参加した自民党の西田昌司参院議員が、沖縄戦で犠牲になった学徒隊の生徒らを慰霊する「ひめゆりの塔」の展示を「歴史の書き換え」などと発言した。
糸満市に立つ「ひめゆりの塔」は、看護要員として動員された沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の生徒による「ひめゆり学徒隊」の犠牲者ら計227人を悼む碑で、敗戦翌年、犠牲者が多かった自然洞窟(ガマ)の上に地域住民らによって建立された(現在の慰霊碑は57年建立)。塔の近くには由来を記した石碑があり、米軍が迫り陸軍病院から解散を命じられた看護部隊が、敵襲を受けたり、断崖に追い詰められて亡くなった経緯が記されているが、西田氏が主張するような「日本軍によって学徒が死に、米軍によって解放された」といった記述は存在しない。
西田氏の発言は、戦勝国が一方的に敗戦国を裁くという東京裁判の歴史観と戦後教育を否定する意図と考えられるが、長い議論や対話の過程を経て培われてきたものを、自分の政治的な立場を主張するために一方的に否定することはあまりに乱暴だ。血がにじむような思いで証言し、資料館を造った生存者の思いを受け止めるべきではないか。西田氏はその後も発言の撤回を拒否し、県内では反発が広がった。玉城デニー知事は「認識錯誤も甚だしい」と憤り、自民党県連も発言の撤回を求めている。県議会での抗議決議も検討されている。西田氏のデマを許してはならない。
西田議員は9日、厳しい批判を受けて追い詰められる中で、発言について「非常に不適切であった」と発言を撤回、謝罪した。ところが、西田議員は一方で「自分の言っていることは事実だという前提でいまも話している」と言い放ち、「沖縄の場合、地上戦の解釈を含めて、かなりむちゃくちゃな教育のされ方をしている」との発言については、「(謝罪・撤回は)しません」と開き直った。こうした西田議員の姿勢は本質的な謝罪とは到底言えず、沖縄戦の史実を捏造するものであり、ひめゆり学徒隊の犠牲者と沖縄戦で亡くなられた全ての犠牲者、遺族、沖縄県民を冒とくするものだ。断じて許すわけにはいかない。