社会新報

「志賀原発を廃炉に!」訴訟原告団団長の北野進さんが福島党首と対談 ~ 珠洲原発計画を止めた人 ~ 市長選に出馬し反対の民意を結集

珠洲原発計画阻止の闘いをふりかえる北野進さん。

珠洲原発予定地だった高屋の隆起は2mと指差す北野さん。

 

(社会新報3月6日号より)

 

 社民党の福島みずほ党首は、このほど、「志賀原発を廃炉に!」訴訟原告団団長の北野進さんと対談した。北野さんは、元石川県議で、珠洲原発建設計画を止めた運動の中心的な役割を担った。党首は北野さんに珠洲原発建設阻止の闘いとその勝因、今回の能登半島での被害の実態などを聞き、今後の運動について語り合った。対談の全文は『月刊社会民主』4月号に掲載される。
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 珠洲原発は、石川県珠洲市の高屋地区と寺家地区に建設される予定であった原発で、1976年に建設計画が発表された。しかし、住民らの粘り強い活動で、計画は2003年に凍結。
 まず福島党首が「もし、この珠洲原発の計画が実現していたら、昨年の能登半島地震で、重大事故が起きていたかもしれない」と述べ、建設予定地であった地域の能登半島地震直後の状況を北野さんに聞いた。
 北野さんは「遠浅の海だったところが隆起してゴツゴツとした岩場になっていた。高屋では2㍍も隆起している(写真)。そこにミリ単位の整備が必要な内部構造を持つ原発があったかもしれないと思うと恐ろしくなる。本当にあり得ないことだ」と語る。また「家屋の倒壊の他、道路の被害、電気水道などのインフラや通信も失われ、壊滅的被害だ。もし、そこに原発事故が起きたら、逃げることもできず、被ばくを強いられることになっただろう」とも指摘した。
 能登半島地震で、あらためてその意義が評価される珠洲原発計画阻止は、どのようにして成し遂げられたのか。福島党首がその勝因を聞くと、北野さんは「電力会社の用地買収に後れを取らず、皆で土地を買って共有地にした」「漁協が圧力に屈さないで、反対運動の大黒柱となり続けてくれた」「選挙で原発反対の自治体議員を増やして、計画が地元の合意を得られていないことを示した」などの理由を挙げた。
 北野さん自身も、石川県議を3期務め、珠洲原発計画の阻止のために尽力した。北野さんは当時、定数2議席で自民党の牙城であったところを崩した。そのため、推進派の動揺は大きかったという。
 北野さんら反対派住民らは、誹謗(ひぼう)中傷や悪質な嫌がらせに直面してきた。「選挙の開票日に玄関のガラスが割られたり、玄関先に猫の死体が捨てられていたりとか、そういうことも含めて、原発反対派の人には皆それぞれ、いろんな嫌がらせがあった」。

93年市長選で不正追及

 1989年春の珠洲市長選に北野さんは29歳で立候補した。惜敗したものの、珠洲原発に反対候補2人の票が賛成する候補1人の票よりも440票上回り、その後の運動に大きなインパクトを与えた。続いて、93年春に実施された同市長選では、原発推進側が勝ったものの、票数が合わず、北野さんら反対派は不正選挙ではないかと追及した。裁判を起こし、95年末に名古屋高裁金沢支部が選挙無効の判決を下し、96年に最高裁で確定して、推進派の市長が失職した。
 こうした結末について、福島党首が「推進派のやり方は裏目に出ましたね」と話を振ると、北野さんも「原発は危ないぞというのが最初にあったのだけども、それ以上に、地域の民主主義をここまで壊すものなのだと実感した。圧力の山。ここまで人権を無視するのかと、原発をめぐる危険な構図が住民に見えてきた」と指摘した。

社民党と労組にも感謝

 珠洲原発計画を止めるための闘いを振り返って、北野さんは「珠洲原発については関西電力と北陸電力、中部電力の3社で1000万㌔㍗という非常に大規模なものにする構想もあった。もし、そのとおりになっていて、今回の地震で重大事故が起きていたら、関西、中部、関東にも放射能汚染は広がっただろうし、日本海は間違いなく汚染の海になった。本当に計画を止められてよかった。珠洲市の住民だけでなく、全国から応援があったから止められた。日本社会党・社民党の皆さん、労働組合の皆さんにも、応援してもらったことにお礼を申し上げたい」と述べた。
 福島党首も、「原発事故は起こさせないし、脱原発に向かうよう、これからも一緒に頑張ろう」と、原発ゼロへの決意を語った。

 

福島党首(右)と語り合う北野さん。