歴史認識を何ら語らず、戦後80年の節目にはふさわしいものではなかった。
石破茂首相は10日、「戦後80年に寄せて」と題する内閣総理大臣所感を発表した。所感は、歴史認識に関し、戦後50年(村山富市)、60年(小泉純一郎)、70年(安倍晋三)の各首相の閣議決定談話を「私もこれを引き継ぎます」と表明するのみで、3首相談話のどこをどう引き継ぐのかを記していない。50年談話と70年談話では水と油の違いがあり、全体を引き継ぐと言うのは何も語っていないのに等しい。しかも、所感という形式は閣議決定談話に比べて公的レベルが極めて低い。
一番の問題は、所感に「侵略」や「植民地支配」の文字が一切ないことだ。日本のアジア諸国への加害責任に言及していない。
一方、「なぜあの戦争を避けることができなかったのか」について長々と分析している。開戦前の内閣が設置した「総力戦研究所」などの予測によれば敗戦は必然であったのに、なぜ当時の内閣は戦争を回避できなかったのかを論じている。裏を返せば勝算ありの戦争を是とするのだろうか。
所感は日本の進路を誤った要因について、大日本帝国憲法上で政府が軍部を統制する文民統制の欠如や、議会やメディアが政府の暴走の歯止めをかけられなかったこと、国際・軍事情報収集の不足などと分析。教訓として「われわれは常に歴史の前に謙虚であるべきで、教訓を深く胸に刻まなければならない」と訴えた。
一定の評価すべき点もあろうが、今回、石破首相に求められたのはこんな分析ではなく、先の戦争についての歴史認識を自らの言葉で語ることだった。
社民党は、村山談話の歴史的意義を再認識する必要があると考える。
村山談話とは、敗戦から半世紀の節目である1995年8月15日に閣議決定された村山富市首相談話である。日本によるアジア諸国への侵略と植民地支配の「国策の誤り」を認め、「痛切な反省」と「心からのおわび」を表明し、謝罪した。アジア平和外交の指針として高く評価された。小泉60年談話は、村山談話を踏襲(とうしゅう)したが、安倍70年談話は、侵略や植民地支配をどの国がやったのかの主語すらない意味不明の内容で、これを持って歴史認識問題に終止符を打とうとした。今回の所感は安倍談話の路線を受けて、歴史認識の表明をあえて避けたといえる。