社会新報

被団協代表委員の田中熙巳さんが特派員協会で訴え ~ 被爆の実相を伝えていく

日本外国特派員協会で会見する被団協の田中熙巳代表委員。(写真提供は同協会)

 

(社会新報11月21日号3面より)

 

 今年のノーベル平和賞に受賞が決まっている日本原水爆被害者団体協議会(以下、被団協)の田中熙巳(てるみ)代表委員(92)が10月22日、都内の日本外国特派員協会で記者会見し、被団協の成り立ちと役割、「核なき世界」に向けた決意を語った。
 田中代表委員は13歳の時の被爆体験を振り返り、「長崎に原爆が落とされた日は、爆撃機が1機だけやってきたので、何の予想もしなかったが、なぜか危険を感じて、2階から1階に駆け下りて伏せた時、周囲が真っ白になった後の記憶がない状態となった。たぶん爆風を受けたからだと思うが、音がしたことも建物が半壊したことも分からなかった」と語った。

奇跡的に生き残る

 田中さんはこう続けた。「私の上には大きなガラス戸が2枚かぶさっており、母が私を大声を出して探していたことでようやく気がついた。奇跡的にこのガラス戸が割れていなかったから助かったようなもので、これは私に『生きろ!』と言っているんだと感じた」。
 さらに田中さんは原爆投下3日後に爆心地を訪れた際に「爆心地の4㌔四方は壊滅状態であり、ケガをしたり、亡くなっている何百何千もの人が放置されている状態だった。当時、私は中学1年生だったが、いくら戦争とはいえ、こんなひどいやり方で大勢の人を殺しては駄目だと感じた」と、当時の衝撃と原水爆禁止運動に関わった初心を語った。
 続いて、被団協の成り立ちや運動について、「被団協が結成されたのは1956年。45年の原爆投下から11年後だった。その間、被爆者は何をしていたのか。実は何もできなかったし、公けに助けを求めることもできなかった。日本の敗戦後、7年間は占領下にあり、被爆の実態を話すことも書くことも禁止されており、どんなに苦しくても原爆のせいだと言える環境にはなかった」と説明した。
 その上で、「日本政府も被爆地の建物の再建など、復興優先で、被爆者のためには何もしなった」と当時の政府の対応を批判した。
 さらに被団協結成の経緯について、「54年の米国が西太平洋のビキニ環礁で水爆実験を行ない、その近くにいた第5福竜丸が被爆した。この事件を契機に放射能被害の恐ろしさがクローズアップされ、あらためて広島と長崎の被爆者たちが立ち上がった。それが被団協だった」と述べた。
 そして被団協が進めた診療時の窓口負担を政府の負担とする運動に触れて、「被爆者手帳の交付には、被爆者への差別を助長するという意見もあったが、窓口負担を無くした意義は大きい」と述べ、「こうした地道な運動が拡大したのは、70年代後半から80年代前半に欧州で起きた中距離核ミサイル配備反対の運動が契機であり、国連の軍縮会議や各種の国際会議で被爆者が原爆の非人道性を訴える運動を展開したことが、今回のノーベル平和賞につながったと思う」と語った。

日本は核禁条約の署名・批准を

 記者から、平和賞受賞後の被団協の果たすべき役割を尋ねられると、田中さんは、「いろいろな手段で被爆者たちが被害の実相を広めていったが、核抑止力に依存する日本政府の方針を変えるまでに至っていない。まだまだ国民への理解が浸透していないからだ。私は原爆被害を直接目撃した最後の世代として、生きている限りこの運動を広めていく。日本政府が核兵器禁止条約に署名・批准するよう求めていく」として、あらためて決意を表明した。