(社会新報8月23日号3面より)
1944年6月16日、米軍大型爆撃機B—29という魔物が日本本土に飛来し、初めて北九州への空襲を行なった。爆撃目標は当時最大の製鉄施設を持つ八幡製鉄所だったが、大きな被害を与えたのは、当時、小倉市にあった兵器工場「小倉陸軍造兵廠」に対してだった。勤労動員されていた10代を中心とする若者約80人の命を爆弾が奪った。初空襲の背景には、その年6月に日本軍がマリアナ沖海戦で大敗北を喫し、空母機動部隊の大部分を失い、継戦能力を失うという事態があった。それにより米軍は、マリアナ諸島から好きなように日本本土への空襲を仕掛けることができるようになった。
そして、45年3月10日に東京への大空襲を行ない、下町を全滅させ、約10万人もの人々の命を奪った。その後は、3月12日・19日に名古屋を襲い、1300人以上の命を奪った。13日に大阪で3987人、17日に神戸で2500人以上もの命を奪った。
4月になってからは、地方都市への空襲を次々に行なった。呉市、郡山市、川崎市、横浜市、日立市、鹿児島市、浜松市、福岡市、静岡市、佐世保市、岡山市、熊本市、高松市、徳島市、千葉市、甲府市、和歌山市、堺市、仙台市、宇都宮市など全国で総計42都市であった。
広島市への空襲(8月6日)と長崎市への空襲(8月9日)は、原子爆弾の投下であった。この原爆投下によって米軍は、広島では約14万人の、長崎では約7万人の命を一瞬にして奪った。広島、長崎以外の各都市への空襲では、1000人以上もの命を奪った都市が28もあった。「NHKスペシャル本土空襲全記録」取材班の2017年調査によれば、米軍による空襲の死者数は45万9564人にも上る。ポツダム宣言が発せられた1945年7月26日以降も17都市への空襲が行なわれ、広島市と長崎市への原爆投下もそこに含まれた。さらに、敗戦日の8月15日にも、米軍は熊谷市、伊勢崎市、土崎市に空襲を行ない、それぞれ266人、300人以上、250人以上もの命を奪った。日本政府がポツダム宣言受諾を遅らせた責任は重いが、受諾日にまで空襲する必要があったのか。
筆者の居住地は長岡市である。長岡も空襲で焼かれた。1488人の命を鎮魂するため、毎年8月2日・3日に花火大会を行なう。花火を見ながらいつも思う。全ての武器を花火に。