社会新報

【憲法特集号に寄稿】「市民運動で憲法を実践する」~許すな!憲法改悪・市民連絡会事務局長 菱山南帆子さん

菱山南帆子さん

 

(社会新報5月10日号4面より)

 

 「憲法がいよいよ変えられるかもしれない」
 5月3日が近づくたびに本気で危機感を持ちながらこのフレーズを言っているが、私は今年も言う。
 「今年こそ憲法があぶない」
 みんなが「まさか平和憲法が変えられるはずない」と思って何も運動をしなかったら、今ごろ事態はもっと悪化していただろう。
 こんなにも政治が腐敗しているにもかかわらず、かろうじて平和憲法は生きている。解釈改憲や安保3文書の閣議決定などズタズタに傷つけられたけれども、死んではいない。
 暑い日も寒い日も、時には雪の中でも署名板を持ち、寒すぎてボールペンのインクが出なくなっても街頭に立ち続け、対話をしてきた地道な運動が、憲法を守り活(い)かしているのだということを、私は確信をもって言いたい。

76年間勝利してきた

 「リベラル左派は負けっぱなし」とよくうそぶかれるが、とんでもない勘違いだ。憲法改悪反対につながるさまざまな闘いの中で、金も権力もない私たちは、時には負けることもあるが、大きく闘いの歴史を見てみれば、どんな改憲の危機も乗り越え、76年間、憲法を一文字も変えさせてこなかった。改憲をめぐっては、私たちの方が継続的に勝利していると言えるのではないだろうか。
 いま、毎週のように憲法審査会が開催され、改憲へと話がどんどんと進んでいるが、果たして改憲したがる国会議員は憲法を使っているのだろうか。とても憲法を使い倒しているようには思えない。
 コロナ禍により、以前から追い詰められていた私たちの生活は、さらに苦しくなったが、政治は、政権が変わっても、とても市民の方を向いて考えているとは思えない。
 医療の専門家が不織布マスクの方が良いと推進しているのにもかかわらず、布マスクを配布し、そのマスクの保管管理費用でまた大きな税金が使われている。10万円を配っても、使えばすぐになくなってしまうため、持続的に市民の暮らしのことを考えているとはとても思えない。そして、金を配った後には、爆発的コロナ感染の中で、旅行や食事に行って金を落とせという政策を打ち出してきた。もうめちゃくちゃである。
 「女性による女性のための相談会」では、相談会に来た市民がカフェスペースに置かれたおにぎりやパンがあっという間に無くなり、スタッフが何度も買いに走り、相談会場近隣のコンビニやスーパーの陳列棚が空になることがたびたびあった。相談に来た方に「ご飯食べましたか?」「お腹空いてますか?」と聞くと、母親に連れてこられた子どもでさえも、首をかしげてあいまいな返事をし、決して「お腹が空いてます」とは言わない。
 「自助、共助、公助」「まずは自分でやってみる、それでもだめなら周りに頼りなさい」
 自己責任論そのものである。これが時の首相による政策スローガンかと思うと、あらためてこの国の人権意識のなさに驚愕(きょうがく)する。
 このスローガンが数々の「助けて」の声を圧殺してきたのだ

呻吟に寄り添う運動

 私たちは憲法を実践しなければならない。
 憲法を実践するとは一体どういうことだろうか。共感と傾聴を大事にし、市民の呻吟(しんぎん)に寄り添った運動と、その背景にある政治の腐敗とも闘う、ばんそうこうと根本的治癒のような両側面を持った運動を行なっていくことが、憲法の実践ではないだろうか。相談会や身近な人の話を聞いて、暮らしと政治をつなげることは目の前の傷口をふさぐ、ばんそうこう。
 ばんそうこうは大事だが、それだけでは本当の治療にはならない。傷ができてしまった原因を突き止め、根本的治癒を行なわなくては、ばんそうこうがいくらあっても足りない。
 この根本的治癒こそが私は市民運動だと思う。
 地域や家族や友達に話をする。相談会などのボランティア活動に参加する。そしてさらに、地域や国会前などで市民運動を行ない、実際に街に出て声を上げ、集会やデモを行なう。大変だが、私たちは、この両方を地道にやっていくしかない。私たちの暮らしを、命を、尊厳を、そして憲法を、傷だらけにしてきた政府に徹底して対抗し、闘っていこう。

 

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