(社会新報2021年3月17日号2面より)
学生ならば赤紙一枚で戦地に赴くのに、辞退できる自分が辞令を受けないわけにはいかないと言って大阪府内政部長だった島田顕が沖縄県知事(当時は官選)になったのは、すでに敗色濃い1945年1月12日。着任は同月31日だ。
以後、約5ヵ月間、行政を陣頭指揮するが、沖縄戦組織的戦闘終結直後、摩文仁の軍医部濠を出て消息不明となる。熾烈(しれつ)を極めた沖縄戦が正式に終結したのは、本土に遅れて9月7日。着任直後から敗走する日本軍の理不尽な要求に対して、終始、民間人の側に立って交渉した県知事・島田の言動を、当時を知る人々が多角的に証言する。
これは、戦後70年を隔てて、当事者本人が語る最後のチャンスだったのではないだろうか。一次資料として貴重なものになった。自然洞窟であるガマを利用した濠内での阿鼻(あび)叫喚は描写もはばかられる。
軍部が住民に自決や玉砕を求める中、最後まで人情を忘れなかった島田は、常に「生きろ」と人々に語りかけた。