(社会新報2022年7月27日号3面【主張】より)
岸田文雄内閣は7月22日の閣議で、街頭演説中に銃撃され死去した安倍晋三元首相の国葬を、9月27日に日本武道館で実施すると決定した。しかし、なぜ国葬なのか、全く理解できない。
国葬とは、政府が主催し、国費で行なわれる葬儀のこと。国家が国民に対して死者への悲しみや悼みを要求すること、つまり弔意を強制することだ。
国葬は日本国憲法19条が保障する「内心の自由」に抵触するものであり、断固として反対する。
そもそも国葬の法的根拠が希薄だ。戦前、1926年公布の国葬令に基づいて皇族、軍人、政治家など対象に国葬が行なわれたが、内心の自由などを定めた現行憲法の制定によって国葬令は47年に失効した。その後、国葬に関する法律は存在しない。今回、政府は内閣府設置法と閣議決定を根拠に実施すると説明するが、不自然極まりない。
戦後、国葬は1967年の吉田茂元首相の1例だけ。その他の首相経験者10人の葬儀は国民有志の国民葬か、自民党や衆院と内閣の合同葬である。
岸田首相は14日の会見で国葬にする理由として、首相在任期間が憲政史上最長であることや、東日本大震災からの復興、日本経済の再生、日米関係を基軸とした外交などを挙げた。しかし、どれもこれも理由になっていない。長期政権を理由にしたが、一体何年やれば国葬になるのか基準が全くない。「東日本大震災からの復興」も「日本経済の再生」も、何ら実現していない。「日米基軸の外交」は戦後全ての首相がやってきたことだ。
さらに岸田首相は国葬を通じて「暴力に屈せず、民主主義を断固として守り抜くという決意を示す」と主張する。しかし、安倍元首相の政治姿勢はそれとは真逆だった。集団的自衛権行使を容認する安保関連法を強行し、立憲主義と民主主義を骨抜きにし、森友・加計学園、桜を見る会、公文書改ざんなど、権力の私物化は露骨だった。
国葬の本当の理由は、自民党内最大派閥・清和会への忖度(そんたく)という党内事情であり、死の政治利用ではないのか。社民党は15日に談話を発表し、「安倍元首相の評価が大きく分かれる中で国家が国葬として国民に政治的評価を事実上強制することは行なうべきではない」と反対を表明。さらに談話は、狙撃事件の背景にある、自民党と旧統一教会の関係の解明こそが求められると指摘している。まさにカルトと政界の癒着構造を徹底検証することが喫緊の課題だ。
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