(社会新報11月14日号1面より)
戦時中に起きた水没事故で、朝鮮半島出身者136人を含む183人が亡くなった山口県宇部市の海底炭鉱「長生炭鉱」。海底に残された遺骨の収集・返還を目指す市民団体「長生炭鉱の水非常(水没事故)を歴史に刻む会」は炭鉱の出入り口(坑口)を掘削し、10月26日、遺族を招いて現地で「坑口あけたぞ!82年の闇に光を入れる集会」と題する追悼集会を開いた。社民党の大椿ゆうこ副党首も参加した。
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坑口前には祭壇が設けられ、日韓の遺族18人が家族ごとに犠牲者を追悼した。「お父さん、私が来ましたよ」。車いすの全錫虎(チョン・ソッコ)さん(92)は、坑口に向かって韓国語で呼びかけ、目元をぬぐった。父は事故当時40歳。全さんは小学校5年だったという。
事故が起きたのは1943年2月3日朝。坑口から約1㌔沖の坑道で落盤が発生し、海水が一気に坑道に流れ込んだ。坑口は二次災害を防ぐという理由で木の板でふさがれ、183人は海の底に取り残された。全さんは閉ざされた坑口の前で毎日泣いたという。苦労に苦労を重ねた母も、2004年に亡くなった。今回、来日した遺族の半数以上が孫世代だ。
長生炭鉱は1914年に開坑。たびたび出水する危険な炭鉱として知られ、朝鮮人労働者の割合が突出。「朝鮮炭鉱」とも呼ばれた。事故は日米開戦の2ヵ月後。戦争遂行のため安全を度外視して増産が求められていた。特に「大出しの日」だった当日は、坑道の天井を支えていた炭柱まで採り、落盤を招く一因になったという。
遺族を待たせられぬ
「冷たい海水にのまれながら、坑口を目指して必死に走った犠牲者に対し、まずは坑口を開けることが道義的責任。待っている犠牲者たちが必ずいる」と、刻む会の井上洋子共同代表(74)は希望をつなぐ。
刻む会結成は91年。犠牲者宛てに手紙を送ったことを機に韓国に遺族会が結成された。市民の募金で追悼碑を建立した2013年、刻む会は遺族の強い思いに背中を押され、遺骨の発掘返還を新たな目標に掲げた。
04年の日韓首脳会談を受け、厚生労働省「人道調査室」は、戦時中の民間徴用者の遺骨について毎年約1000万円の調査予算を計上している。昨年12月の政府交渉で、厚労省は「(寺などに安置されている)見える遺骨だけが調査対象」などと回答。海底の遺骨発掘は困難とした。遺族をこれ以上待たせることはできないと、刻む会は民間の力で坑口を開けようと決断。日韓両国でクラウドファンディングなどを実施し、1200万円を集めた。9月中旬に重機で掘削を開始。同月25日、4㍍下の地中から坑口を発見した。坑口をふさぐ木の板を外すと、勢いよく海水が噴出した。
国がやるべきことだ
遺族会の楊玄(ヤン・ヒョン)会長はおじを亡くした。「幅2・2㍍。高さ1・6㍍。トロッコが通ると1人しか通れない劣悪な環境で強制労働させられたと思うと胸が痛い。一緒に帰ろう」と坑口に向かって呼びかけた。刻む会や関係者への謝辞を述べるとともに、「日本政府は、口先だけの人道主義、現実主義に執着せず、市民団体に参与し、遺骨を発掘して故郷に返してほしい」と強調した。
追悼集会には、社民党の大椿ゆうこ参院議員も参加。「国がやるべきことを、市民が国に働きかけるためにここまでやっているのを、傍観するのか」と訴えた。前厚労相の武見敬三氏は在任中の9月末、人道調査室に対し、「坑口が開いたなら大椿議員と会うように」と指示していたという。その後、面会は11月6日に行なわれ、刻む会の井上共同代表も同席した。
10月30日には、協力を申し出た水中探検家、伊佐治佳孝さん(36)が初めて坑口からの潜水調査を行なった。坑道に約200㍍入り、遺骨調査の可能性が確認されたことなどを説明した。
共同代表の佐々木明美さん(社民党山口県連代表)は、「国策のための犠牲者を国が知らんぷりすることは許されない。国が責任を果たすよう、最後まで追及していきたい」と話した。