社会新報

実態の把握進まぬ「震災障害者」-「よろず相談所」牧さん 神戸で支援続け証言集出版

(社会新報2021年3月31日号4・5面より)

 

NPO法人「よろず相談室」は、神戸のボランティア団体だ。息長く阪神・淡路大震災の被災者支援活動を続けてきた。震災から26年。理事長の牧秀一さん(70)はこのほど、四半世紀を生き抜いた被災者たちの証言集を出版した。「『阪神』の被災経験が、東日本大震災はじめ、全国の被災者や、いつか被災者になり得る人たちの力になれば」と願う。

 

 

牧さんが出版した証言集のタイトルは『希望を握りしめて』。よろず相談室と被災地の歩みを記した第一章と、証言を集めた第二章から成る。
1995年1月17日午前5時46分、マグニチュード7.3の都市直下型地震が発生した。震度7を記録した神戸市を中心に被害は甚大で、関連死を含めた死者は6,434人。重軽傷者43,792人。住宅被害は61万棟に上った。未曽有の大災害となった、阪神・淡路大震災だ。
その朝、牧さんも同市東灘区の自宅で激震に遭遇した。木造家屋は音を立ててゆがみ、「あと2秒揺れが続いたら家は崩壊していた」と振り返る。
町は壊滅し、職場の定時制高校への通勤も不可能だった。校長に2週間の休暇を願い出て、震災9日目、避難所となった近くの小学校へボランティアに入った。
「先生だから、人の話を聞けるでしょ。聞いてあげてほしい」。ボランティアリーダーの若者に頼まれた。冷え切った教室で毛布にくるまって動かないお年寄り。家や家族を失った人。かける言葉が見つからなかった。
思いついたのが「新聞」づくり。当時、避難所には無料配布の新聞が山積みだったが、手に取る気力もない人が多かった。新聞や市広報から被災者に必要な情報を切り取り、B4判1枚の「よろず新聞」を毎晩作成、配るだけでなく読み上げて説明した。
同年9月、避難所閉鎖とともに活動を終了したが、半年後には「もう一回やろう」と仲間に呼びかけた。この間、独自に家の近くの仮設住宅を回り、酒瓶が転がる荒れた生活を垣間見て、「放っとかれへんかった」からだ。仮設での孤独死や自殺のニュースも相次いでいた。メンバー13人で、東灘区内の仮設住宅10ヵ所、ひとり暮らしの高齢者ら300世帯を訪問し、話し相手となる活動を始めた。「1日に3軒、7時間以上話を聞いたときは、乗ってきた自転車をふらつきながら押して帰るのが精いっぱいだった」という。
訪問先はその後、災害復興住宅へ。住み慣れた地域を離れて仮設に入り、やっと近所付き合いができたらまたバラバラにという状況で、ここでも孤独死が社会問題化した。「特に高齢の被災者の喪失感は強い。必要なのは『一人ではない』と伝えること。気にかけてくれる人がいると感じてもらうことが大切なんです」と牧さん。復興住宅のひとり暮らしのお年寄りへ手紙を送る支援にも取り組んだ。

 

忘れられた被災者

震災から20年経ったころ、交流を重ねてきた被災者たちの証言をホームビデオで記録し始めた。震災前はどんな生活を送っていたのか。被災時は。その後、どんな思いで生きてきたのか。苦悩やささやかな喜びなどを丸ごと聞いた。約5年かけて撮りためた映像は40時間分になった。
内部資料のつもりだったが、ある日、知り合いのカメラマンに一部を見せると思わぬ反応が返ってきた。「こんな自然体で本音を語る姿は私たちには撮れない。ぜひ社会に出してほしい」。旧知の報道関係者らも交え公開に向けた映像編集会議を開き、書籍化も決まった。映像に収録できなかった人も含め18世帯26人の証言を、できる限りありのままに書き起こした。だから今回の全504ページの分厚い証言集は、証言映像のDVD(50分)付きだ。
証言した半数の世帯が震災時のけがなどで障害を負った「震災障害者」とその家族。よろず相談室は07年から震災障害者の支援を開始し、月1回の「震災障害者と家族の集い」にも取り組んでいる。
「集い」のきっかけは、牧さんが震災前に通っていた喫茶店のマスター、岡田一男さんと偶然再会したこと。岡田さんは震災当時54歳。東灘区の店舗兼自宅は倒壊した。18時間がれきの下敷きになり、クラッシュ症候群で右足に障害が残った。岡田さんはこう話した。
「震災で後遺症を抱えた私は重たい荷物を背負っている。薄紙をはぐように軽くしたい。同じ悩みを持つ人たちが気楽に集まれる場があれば」
震災後12年にして初めて被災地で始まった「集い」。ある人は「ここは泣いていい場所や」と泣き続けた。「これであと1ヵ月頑張れるわ」と帰って行く人もいた。障害や問題は一人ひとり違うが、みな行政の支援もほとんどないまま、「生きているだけましや」という言葉に傷つけられていた。
ようやくその存在が可視化される中、兵庫県と神戸市は10年度、実態調査を実施。349人の存在を把握した。13年に県が相談窓口を設置、復興支援専門員らが相談に応じるようになった。
しかし、牧さんは「実際は2,000人を上回る」と見る。震災当時、医師の診断書の理由欄には「自然災害」の項目がなく、調査では「その他」の項目に「震災」と書かれた人のみが対象とされたためだ。証言集に登場する一人は脊髄損傷で車いす生活になったが、公的には震災障害者ではない。他にも、県外の病院で治療を受けたり、転居したりした人は取りこぼされた。
震災被災者が孤立無援に陥らないためには実数の把握が大前提だ。牧さんらは当事者とともに国にも支援拡充を要請。17年、厚労省は身体障害者手帳の申請書類の原因欄に「自然災害」の項目を追加するよう全国の自治体に通知した。しかし、その後も東日本大震災、熊本大地震、西日本豪雨など大規模災害が発生したが、震災(災害)障害者の実態把握は進まない。精神障害者については、把握する仕組みすらできていない。

 

「人を救うのは人」

いま、神戸の街並みにかつての惨状を重ね合わせるのは難しい。だが、震災障害者やその家族の苦難は続く。復興住宅の高齢化率は5割を超え、その多くはひとり暮らし。自治会運営も困難で、自治会そのものが消滅した住宅も少なくない。牧さんらが訪問する世帯数も130世帯から12世帯になった。
さらなる転居を求められた人たちもいる。仮設解消を急いだ被災地の自治体は民間やURなどの集合住宅7,000戸も借り上げ、復興住宅とした。しかし、入居期限は20年。期限後もとどまる高齢者の退去を求め、神戸市や西宮市は裁判も起こした。入居時の行政の説明不足が指摘されるが、高齢者側が敗訴するケースが相次いでいる。
腰を据えた活動のため、10年には、よろず相談室をNPO法人化。昨年、牧さんは若い世代に代表を譲った。「施策だけでは救えない。人は人によってのみ救われる」というのが四半世紀の経験則だ。
長年の活動は大勢のボランティアと全国からのカンパがあってこそ可能だった。毎月1,000円を8年余り送り続けてくれた人もいた。一度に1年分ではなく、1,000円ずつ。余裕があるとはいえない生活費から捻出してくれていた。
実は牧さんはかつて「活動する意味がないからやめよう」と仲間に弱音を吐いたことがある。訪問先の復興住宅で孤独死があったのだ。それも発見されたのは4ヵ月後。
その後、何ヵ月もどこも訪問できなくなった牧さんを立ち直らせてくれたのは、全国からの支えだった。そして、亡くなった人の隣人の「また来たらええやんか」という言葉だった。
今年3月、牧さんは証言集を携えて宮城を訪れた。よろず相談室はこの10年、東日本大震災の被災地にも80回以上、通ってきた。「継続すること」「神戸の被災者を見捨てないこと」を自分たちに課し、気仙沼、石巻、いわきなどで、訪問活動や支援の助言を行なってきた。「地場産業が壊滅し、若い世代が故郷を離れて働き場所を求めざるを得ないケースが多いのです」。東北の復興住宅はより高齢化が著しく、牧さんは「阪神以上の悲劇」を懸念する。
その東北の中学・高校に証言集を送ろうと、3月末までクラウドファンディングも実施中だ。
「より厳しい状況が予想される東北で、阪神の被災者の経験を学校教育に生かしてほしい」

 

定時制高校教諭を続けながら支援活動に注力してきた牧秀一さん。