月刊社会民主

「生きさせろ!」と叫び続けてきて今、思うこと 非正規社会からの脱却 作家・活動家 雨宮処凛

(月刊社会民主2021年11月号)

思わず涙ぐんだ

「非正規社会からの脱却」

「共同テーブル」の発起人、佐高信さんが起草した「いのちの安全保障に向けて」のサブタイトルに掲げられたその言葉を見て、思わず涙ぐみそうになった。

それはまさに、「生きさせろ!」と活動を続けてきた私の問題意識とぴったりと重なるものだったからだ。

さらに佐高さんは、32歳で職場の建物から飛び降りて自ら命を絶った歌人・萩原慎一郎さんの歌を挙げている。非正規のむなしさ、みじめさ、よりどころのなさをつづった彼の歌に、私も胸を打たれた一人だ。

さて、私が「生きさせろ!」と声を上げ始めたのは06年。今から15年前のこと。当時は小泉政権で、「戦後最長の好景気」なんて言われていたけれど、格差と貧困がこの国をじわじわとむしばんでいた。

私が奇妙なニュースを目にするようになったのは、その年の春ごろからだった。

それは、ネットカフェで無銭飲食で逮捕されたという若者のニュース。所持金が数十円なのにネットカフェに滞在し、料金が払えず捕まったのだ。その中には、ネットカフェの滞在が1ヵ月にわたっている者もいた。その多くが20代、30代。

そんなニュースが全国でちらほら流れ始めた当時、思った。これは、フリーターのホームレス化が始まったということではないのか?

予想は当たった。

翌07年、ネットカフェに寝泊まりする家なき人々の存在が知られるようになり、「ネットカフェ難民」という言葉が「新語・流行語大賞」のトップテン入り。年越し派遣村が開設されたのはその翌年末である。「都市がモザイク状にスラム化を始めた」。現場では、そんな言葉も聞くようになった。

就職氷河期にはしごを外された世代

私自身、19歳から24歳までの5年間を非正規として生きてきた。

1993年、北海道の高校を出た私は、美大の予備校に通うため単身、上京。だが美大は二浪して進学を諦めた。それでは就職でもしようかと思ったところ、世の中は「就職氷河期」なんて呼ばれていて、いい大学を出た人たちさえも就職に苦労するようになっていた。

なんだかはしごを外された気分だった。「頑張れば報われる」。学校ではそう教え込まれ、受験戦争の副産物として発生したいじめにも耐えて耐えて歯を食いしばってきたわりには、「バブル崩壊で今までの努力は報われないことになりました」と言われた気分でいっぱいだった。

周りの友人の中には、就職試験で100社近くに落ちる経験をし、心を病んでいく者もいたし、就職難を苦にした自殺未遂の話も聞いた。

就職氷河期に放り出された同世代の多くは、「景気回復まで」のつなぎとして非正規の道を歩み始めた。アルバイトだけでなく、派遣社員や契約社員といった、当時はまだ聞きなれない立場になっていった。進学を諦めた私も、「とりあえず働かなくては」とアルバイトを始めた。その途端、私の肩書きはフリーターとなった。

ウエートレスをはじめとして、雑貨屋やカラオケ屋などさまざまなバイトをした。どれも時給は1000円程度。その額で一日8時間、週に20日働いたとしても16万円。そこからもろもろ引かれれば手取りはもっと低く、家賃と光熱費と携帯代を払えば、ギリギリ餓死しない程度の食費しか残らなかった。しかもそんなバイトは「最近、売り上げが悪いから」などの理由でしょっちゅうクビになるのだった。次の職探しに1週間もかかれば、その間はまったくの無収入なので、電気やガスがよく止まった。フリーターを始めて半年も経つころには、この生活から抜け出す方法がないことに気づいていた。当時、フリーターの友人としみじみ、「うちら、親が死んだらホームレスだよね」と話した。

その予言が「ネットカフェ難民の出現」という形で当たるのは、それから約10年後のことだ。

生きづらい理由を知りたくて右翼団体へ

不安定なフリーター生活は、私の心をむしばんでいった。自殺願望に取りつかれるようになり、バイトをクビになれば「自分がダメなんだ」と自らを責めて手首を切った。先が見えない日々がつらすぎて、97年からの2年ほどは右翼団体に入った。

きっかけは、阪神・淡路大震災と地下鉄サリン事件。戦後50年のその年、特にオウム事件を受けて、メディアの大人たちは戦後の価値観や教育が誤っていたのでは、なんて話していた。そんな話をテレビで見ながら、私は間違った価値観と教育の中で生きてきたからこそこんなに貧乏で生きづらいのではないかと思った。とにかく、生きづらい理由を知りたかった。その上、バブルも崩壊した中、本気で政治や社会について考えなくては生き残れないのではないかとも思っていた。そんな時、頭に浮かんだのが右翼や左翼といった人々だ。どっちがどっちかも分からなかったけれど、何やら「社会に怒ってそう」な人に話を聞けば、何か分かる気がした。

左右の違いも分からず、まずは「左翼」と言われる人たちの集会に行った。しかし、専門用語ばかりで何を言っているのかチンプンカンプンだった。その次、右翼の集会に行ってみた。そうしたら、むちゃくちゃ分かりやすいではないか。しかも「今の若者が生きづらいのは、アメリカと戦後民主主が悪いのだ」と断言している。なぜ、「アメリカ」と「戦後民主主義」が悪いのかなんてさっぱり分からなかったけれど、初めて「お前は悪くない」と言われた気がした。あの時、世界で唯一、私を免罪してくれたのが右翼だったのだ。それ以外の大人たちは、フリーターなんて甘えて怠けてけしからん、となじるだけだった。社会に必要とされる仕事を低賃金でやっているのに、私たちがいなければ困るのに、どうしてそんなにバカにして人格否定までするのか、悲しかったけれど何も言えなかった。

そうして私は右翼団体に入った。非正規ゆえ職場にも属せず、ゆえに長期的な人間関係もつくれず、地域社会もない私にとって、「国家」は唯一属せる場所だった。自分の経験から思うのは、寄る辺ない人間を増やすほど、「国家」的なものを必要とする人が増えるということだ。また、「頑張れば報われる」がうそになったことで「教育にうそをつかれた」という強烈な被害者意識を持っていた当時の私には、「学校が教えてくれない靖国史観」的なものがすんなり入り込む隙間もありすぎた。

結局、団体は2年でやめた。きっかけのひとつは、右翼団体内で日本国憲法についてディベートしたこと。それまで団体に言われるがまま「憲法改正」とか言っていたくせに、憲法を読んだことなどなかった。しかし、賛成と反対に分かれてディベートするなら読まなければならない。そう思って読んだところ、右翼のくせにうっかり前文に感動してしまったのだ。そうしてやめた。

結局、右翼団体をやめる過程がドキュメンタリー映画となり、それがきっかけで「本を出さないか」と言われて2000年、デビュー。同時にフリーターからも脱却した。

弔い合戦の気持ちで「生きさせろ!」と叫ぶ

しかし、自分がフリーターでなくなっても、同世代の働き方と生きづらさは大きな関心事であり続けた。弟の就職も大きかった。大卒後、就職できず1年間フリーターをしていた弟は、ある家電量販店の契約社員となり、その1年後に正社員となった。だが正社員になる際、「残業代は出ない、ボーナスは出ない、労働組合には入れない」という誓約書にサインさせられていた。そうして正社員になった途端、1日17時間労働が始まった。弟はみるみるうちに痩せていったものの、そのことを友人に相談すると、「今時、正社員なんてみんなそうだよ」と笑われた。

自分の経験上、フリーターが精神的に追い詰められることは知っていた。しかし、正社員もこれほど大変なのだ。だが辞められない。辞めたらまた非正規だからだ。いつの間にかこの国では、どんなに長時間労働をしても壊れない強靭(きょうじん)な肉体と、どんなにパワハラを受けても病まない強靭な精神を持った即戦力しか必要とされなくなっていた。それ以外は全員、使い捨て。

そんな労働環境が当たり前になりつつあった2000年代はじめ、「ネット心中」がはやり出した。若者たちがネット上で一緒に自殺する相手を探し、レンタカーで山奥などに行き、練炭で自殺するのだ。自分の周辺からもネット心中で亡くなる人が出た。一方、ネット心中という形ではなくても、自殺する人は以前から出ていた。その中には、弟のような過労死寸前の正社員もいれば、非正規で働く人、不安定な生活から鬱(うつ)になった人もいた。90年代後半から、若者の間では「普通に働き、普通に生きる」ことが極端に難しくなっていて、しかし、非正規問題はフリーターという言葉で「本人が好きでやっているもの」とごまかされていた。就職氷河期という社会的な問題は無視され、フリーター問題は労働問題ではなく、「自分探し型」「モラトリアム型」という形で若者の「心理」「気分」として分析された。

だけど、違うんじゃないか?  私がフリーターのころにあれだけ自殺願望に取りつかれたのも、ネット心中がはやるのも、周りで自殺する人がいるのも、弟の異様な働き方も、ネットカフェ暮らしの若者たちの問題も、すべてはつながっていて、決して個人ではなく構造の問題ではないのか?

そんなことを考えていた2006年、たまたま行った「フリーター労組」のメーデーで、それらが新自由主義の問題だということが鮮やかに説明されていた。いろんなことがストンとふに落ちた。同時に、猛烈に腹が立った。友人知人たちは、働けない、フリーターしかできない自分が悪いと自分を責め、遺書で謝りながら死んでいった。だけど、全然悪くなかったのだ。いろんな悪循環は政治によってつくられたものであって、決して本人たちのせいではなかったのに――。弔い合戦のような気持ちで始めたのが、「生きさせろ!」と生存権を求める運動だった。

誰かを犠牲にして成り立つ社会を終わらせたい

それから15年。当時若者だった私たちは中年となり、周りの同世代はいまだに多くが非正規のまま。そして非正規化は若い世代へも受け継がれた。

昨年、そんな私たちを直撃したのがコロナ禍だ。

昨年3月、「反貧困ネットワーク」が呼びかけ、40団体ほどで「新型コロナ災害緊急アクション」が立ち上げられ、SOSを受け付けるようになった。

以来、連日、「ホームレスになった」「所持金が尽きて4日間、何も食べていない」「携帯が止まった」などの切実なメールが届き続けている。そんなメールを送ってくる多くが20~40代。その中には、この20年間を「寮付き派遣」という非正規で生き延びてきた40代もいる。寮付き派遣の仕事を切られると、職と住まいを同時に失うため、次も寮付き派遣の仕事しか選択肢がない。貯金もできない低賃金なので、1日3000円ほどを日払いしてくれることも条件となる。そうなるとどんどん足元を見られ、仕事の条件は劣悪になっていく。非正規化が進んだこの20年、企業側は露骨に足元を見るようになり、搾取はより巧妙になってきた。そんな中、なんとか非正規綱渡りを生き延びてきたものの、コロナ禍でとうとう路上生活となった人が多くいる。

非正規を食い物にするのは労働現場だけではない。脱法シェアハウス、脱法ドミトリー、SNSを使ったヤミ金や困窮者を食い物にするような一部の施設など、貧困ビジネスも日々「進化」している。その中で、「公助」だけが退化を続けているような状態だ。

非正規だと、ローンが組めず、賃貸物件の入居審査に落ちるという問題もある。結婚や出産に前向きになれないという人も多い。たかが雇用形態が、今や身分制度のように人生に暗い影を落としている。

だからこそ、非正規社会からの脱却を。

誰かを犠牲にして成り立つ社会を、一刻も早く終わらせたい。そう心から願っている。

 

あまみや・かりん

1975年、北海道生まれ。作家・活動家。2000年、著書『生き地獄天国』で作家デビュー。06年より非正規問題、貧困問題をテーマとして取材、執筆、運動中。最新刊に『コロナ禍、貧困の記録』。

 

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