(社会新報2022年4月27日号2面より)
護憲平和と日米地位協定の抜本改定などを訴え続け、社民党の副党首や国対委員長を歴任、衆参両院で通算24年間、国会議員を務めた照屋寛徳さんが4月15日、沖縄・西原町の病院で胃がんのため死去した。76歳だった。
照屋さんは1945年、サイパンの米軍捕虜収容所で出生。琉球大法文学部を卒業し、沖縄が日本に復帰した72年に弁護士登録した。家永教科書裁判、嘉手納爆音訴訟などの弁護を務め、刑事事件で7件の無罪を勝ち取った実績を持つ。
県議2期を務め、95年の参院選で当選し、国政に転身。2003年の衆院選で当選し、沖縄2区で社民党の議席を6期連続で守り続けた。昨年10月の衆院選では、新垣邦男さんを後継候補とし、政界を引退した。
国政では不平等な日米地位協定の抜本改定を訴え、米軍普天間飛行場の名護市辺野古移設に一貫して反対した。
社民党は15日、服部良一幹事長名で訃報に接しての談話を公表し、「沖縄の平和のために長年尽力されてきました。私たちにとって尊敬する誇りある指導者でした。改憲の動きを大変心配されておりました。今後ともご指導を期待していただけに喪失感はこの上なく大きいものがあります」と照屋さんの死を悼んだ。
18日、うるま市で営まれた告別式には与野党を問わず幅広く2000人が参列。
告別式に参列した福島党首は「照屋さんは『ウチナーの未来は、ウチナーンチュが決める』との信念を掲げ続け、沖縄をこよなく愛し、沖縄での不条理にすごく怒り、国会で熱く語った。亡くなられて本当にショックです」と別れを惜しんだ。
↑照屋寛徳さん
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