社会新報

長谷川健一さんの闘いを引き継ごう-原発被災と甲状腺ガン 壮絶な生涯を追悼- 文と写真=ジャーナリスト・豊田直巳

(社会新報2021年11月24日号1面より)

 

10月22日夜、飯舘村の長谷川健一さんが急逝した。長谷川さんは元酪農家や飯舘村前田区長、「謝れ! 償え! かえせふるさと飯舘村:原発被害糾弾飯舘村民申立団」団長、「原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)」共同代表などの肩書きを持っていた。しかし最後の肩書きは「前田明神そば生産組合長」。牛たちだけでなく、若者も子どもたちも消えた村に戻って、ソバ栽培にだけは最後までこだわり続けた68年の生涯だった。

私が原発事故以来、10年間にわたって長谷川さんにカメラを向けてきたのは、彼との約束があったからだ。2011年3月から取材に入った飯舘村で、酪農家11戸のリーダーとして彼は牛の乳を搾っては捨てる毎日の中、区長を務める前田集落のことを心配していた。

菅野さんの無念を胸に

そんな中で、村に隣接する相馬市玉野の酪農家仲間=菅野重清さんが「原発さえなければ」という言葉を堆肥小屋の壁に書き残して自殺した。長谷川さんに連れられて弔問すると、壁には「酪農家の仲間は原発に負けないで頑張って下さい」との遺言が、家族や友人への感謝の言葉と共に記されていた。チョークで書かれた文字をじっと見つめる彼は「ここに重清の思いが全部、こもっている」とうめくようにつぶやいた。

その夜も、長谷川宅に泊めていただき、放射能に汚染された村や彼自身の、答えの出ない今後について話を聞いた。これからもカメラを彼に向けさせてほしいという私に、彼は、「いいよ。その代わり最後まで撮れよ」と言ったのだ。

長谷川さんは、重清さんが残した言葉を守ろうとするかのように、酪農は廃業しても集落の区長として住民避難を先導し、避難先で仲間の酪農の再開に奔走した。さらに、飯舘村民の約半数が参加する、東京電力を相手取って損害賠償を求めてのADR(原子力損害賠償紛争解決)において、「謝れ! 償え! かえせふるさと飯舘村:原発被害糾弾飯舘村民申立団」の団長として先頭に立ち、また「原発事故被害者団体連絡会(ひだんれん)」の共同代表も務めたのだ。

一方で、「自分たちが拓いた農地を荒らしたままにはできない。農地保全のためにソバ栽培をする」と、伊達市の仮設住宅から村に通ってソバを作り始めた。

2017年3月、村の避難指示が解除された。彼は翌年、村に戻り、「前田明神そば生産組合」を仲間たちと立ち上げ、組合長に就任。それでも「飯舘のソバが売れるとは思わない。でも農地保全にはなる」とソバ栽培面積を拡大し、今年は約45町歩を管理した。

友人の遺言に応える

この「闘い」に伴走しながら、私は長谷川さんとの約束を映画『遺言~原発さえなけば』『奪われた村』『サマショール 遺言 第六章』にまとめて、劇場公開し、また長谷川夫妻の姿を写真絵本『「牛が消えた村」で種をまく~「までい」な村の仲間とともに』(農文協)や岩波ブックレットで伝えてきた。  

そして今年3月、長谷川夫妻を中心に帰村する人々を描いた『サマショール』を福島市で公開するに際し、彼に舞台あいさつをお願いしようと電話をかけた。するとスマホからは『俺、いま声が出ねえんだ』という、かぼそい声。

クリニックで診断を受けた彼は、「ガンだって。咽頭ガンで、進行性だから早く病院に行けって言われた。片方の声帯は動いていないし、もう片方の声帯もダメになるかもしれないって」と、声を失う可能性を示唆されたという。その後に精密検査を日赤病院で受診し、最終的には甲状腺ガンと診断が下った。

私は彼の「声」を記録しようと村に通い続けた。放射線治療、抗がん剤治療に通いながらも「俺がソバを何とかしなくっちゃなんねえべえ」と畑に出る。

日に日に弱っていく彼にカメラを向けながら、私は思った。長谷川さんは10年前に友人が残した遺言「原発に負けないで」に応えるかのように、原発被災と、病と闘い続けたのだ、と。

 

↑原発被害糾弾飯舘村民申立団団長として運動の先頭に立った長谷川さん。

 

↑東電に賠償を求める村民の過半数の3000余名の申し立て書をADRセンターに提出する長谷川さん(2014年)。

 

 

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