(社会新報11月30日号3面より)
先日夕方、社民党全国連合に高齢男性から電話があり、筆者が対応した。「福島みずほさんは頑張っているが、社民党はさっぱり見えない。浅沼稲次郎の精神を受け継いで、もっと闘いなさい」と叱咤(しった)激励された。10分以上励ましてくださり、沖縄出身であることが分かった。
電話を終えるにあたり、筆者の名前と出身地を尋ねられた。答えると、「新潟か? 新潟県の板倉に、宮古島で人頭税に苦しむ農民を救おうと私財を投げ打ち闘った人物がいた。中村十作という人だ。そういう偉大な人と出身地が同じなのだから、君も頑張りなさい」と再度激励された。
恥ずかしながら、筆者は中村十作という名前をこの時初めて知った。早速調べてみた。中村十作は新潟県上越市板倉区稲増(当時は稲増村)で生まれた。東京専門学校卒業後、真珠養殖を夢見て1892年に宮古島に渡った。そこで農民が「人頭税」という過酷な税による貧困と差別に苦しんでいる姿を見て、衝撃を受けた。そこで、十作は人頭税廃止に向けて命を懸けて闘う決意をした。農業試験場の技師・城間正安や農民総代らと協力し闘った。農民に君臨する士族たちの妨害にも屈せず、十作たちは1893年に上京し、弟の十一郎や同郷の増田義一らの協力を得て、翌年に人頭税廃止の請願書を帝国議会に提出し、それが可決された。そして、1903年、260年以上も続いた人頭税はついに廃止された。十作の功績は現在も宮古島で語り継がれ、「大和神」として奉られている。
十作の郷土・板倉では、没後かなり経ってから、弟十一郎の書き残したメモが実家の土蔵から見つかり、ようやく、十作の功績が地域の人々に知られるようになった。現在は板倉稲増集落開発センターに中村記念館が設置され、近くには記念公園もある。
さらに、1994年から板倉区と宮古島城辺地区の小学生による交流事業が実施され、20年~22年は新型コロナ感染症の影響で中止となったが、今年8月に復活した。板倉の子どもたちは宮古青少年の家に宿泊し、城辺地区小学校との交流や、人頭税・宮古島に関する学習などをした。
いま沖縄では辺野古新基地建設や宮古島などへのミサイル基地建設が強行されている。私たちは、中村十作の精神を受け継ぎ、現代の「人頭税」からの解放を沖縄県民と共に勝ち取らなければならない。