(社会新報10月11日号3面より)
ロシア革命の衝撃のもと花開いた大正デモクラシーの時代、自由奔放な言動で社会に存在感を放った社会主義的アナキストの大杉栄と伊藤野枝。二人は関東大震災勃発直後の1923年9月16日、大杉のおいで6歳の少年、橘宗一とともに陸軍憲兵隊によって拉致、虐殺された。それから1世紀を隔てた9月24日、「伊藤野枝・大杉栄ら没後100年記念シンポジウム~自由な自己の道を歩いて行こう」が開かれた(没後100年記念イベント実行委員会主催)。東京・神田の明治大学の教室は200人を超える聴衆で満席。関心の高さをうかがわせた。
冒頭、大杉のおいに当たる大杉豊さんがあいさつ。「大杉と野枝が殺されたことは忘れられず今に伝わるが、謎の多い事件。この会を通じて、大杉たちの声が聞こえるかもしれない」と期待を述べた。
血を流すまで戦う
メーンは作家の森まゆみさん、ルポライターの鎌田慧さんの講演。中学生のころ、瀬戸内晴美さん(その後、寂聴)の『美は乱調にあり』を読み、28年の短い人生を駆け抜けた野枝の生き方に感動したという森さん。お話の中身は、タイトル「青鞜時代の伊藤野枝」を超え、綿密な取材と年譜をもとに生誕から虐殺されるまでの足跡をたどることで、野枝の人物像を生き生きとよみがえらせるもの。
気が強いエゴイスト、水泳や三味線が得意、猛烈な勉強家。ダダイスト辻潤との暮らしから大杉に走る経緯。平塚らいてう主宰の「日本で最初の女性による女性のための女性の雑誌」である『青鞜』の編集で活躍。『青鞜』社員になったのは1912年で17歳と、今ならまだ高校生だ。らいてうは、このときの野枝を「野性的な燃えるような眼差し、美しい目をした少女」と描写している。
野枝の思想と行動の芯にあるのは、自由を縛る因習や抑圧、父権的家族制度への憎悪と、それを、たとえ自分が傷ついても打破するという強烈な意志だ。「新しい女は~新しい道を先導者として行く」「進んで血を流すまで戦って行く」。野枝が命をかけたこの闘争は、いまだ完結しない。政府は女性の活躍や地位向上をうたうが、その内閣自体、先の改造で女性閣僚を5人も入れたと宣伝する一方、副大臣・政務官計54人中、女性はゼロ。思想や表現の自由も危うい状況にある。
森さんは、野枝や大杉の死からの100年とは何だったのかと疑問符を投げかけた。
甘粕単独殺害説で憲兵隊の責任回避
ルポライターの鎌田慧さんは、「大杉栄~自由への疾走」と題して語った。
関東大震災100年で朝鮮人・中国人虐殺への関心は高まったが、亀戸事件や大杉たち社会主義者・アナキストが、その思想ゆえに拘束され、虐殺された事実は、いまだ歴史の闇に埋もれている。
鎌田さんは、もっと掘り起こされ、検証されるべきだと指摘。特に大杉の死因をめぐる重大な疑念を強調した。3人の殺害に関わった甘粕正彦憲兵大尉ら5人を裁いた軍事法廷の判決は、大杉殺害は甘粕が単独で首を絞め窒息死させたと断定した。
しかし、大杉は陸軍連隊長の父親にならって陸軍幼年学校に入り、ケンカで退校となったものの、軍事教練を受け、柔剣道もかなりの腕前であることに鎌田さんは注目する。小柄で虚弱な甘粕が一人で殺せる相手ではないと言うのだ。
実際、1976年に明るみに出た大杉たちの解剖鑑定書によると、遺体は胸骨などに激しい骨折がある。甘粕を含む数人が、寄ってたかって殴る蹴るの暴行を加えたのではないか。判決が甘粕一人の犯行としたのは、憲兵隊=陸軍としての責任を免れるため。だからその見返りに、甘粕は禁固10年の刑期を3年で終わらせる。そして直ぐ陸軍の援助で渡仏。その後は中国に入り、特務機関の資金を使って「満州国」建国などに暗躍することになった。
鎌田さんはこのように解き明かした。
他に、加藤陽子さん(日本近現代史)、岡野幸江さん(日本近代文学・女性史)、梅森直之さん(政治学)がコメントを加え、シンポジウムを終えた。(望月信光)