政治とは、法とは、子育てとは、家族とは、愛とは──
2023年、社民党党首・福島みずほが、議員生活25年を迎えました。
1998年に当選し、政治家として、党首として走り続けてきました。この節目に改めてこれまでを振り返り、その原点や志、活動の原動力について、インタビューにこたえました。公私にわたるエピソードを含め、1万字超にわたり、知られざる半生をお届けします。
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1.議員25周年の永年在職表彰
今年の2月8日、参議院の本会議で、議員25年の永年在職表彰を受けました。投票をしてくださったみなさんに感謝をしています。この25年、全力で応援してくれた家族、友人、歴代の秘書のみなさん、党員のみなさん、スタッフ、ボランティアのみなさん、支援者のみなさんの顔が浮かび、感無量でした。
私も含めて参議院で25年の永年在職表彰を受けた人は85人いますが、女性はわずか7人。野党の女性議員では、1984年の市川房枝さん以来です。
衆議院は451人で、うち女性は6人でわずか1.3%です。女性がもっと意思決定の場に入って、政策の優先順位を変え、多様性のある社会を実現しなければと改めて決意しました。
本会議場や、議長公邸での表彰には夫と娘も駆けつけてくれて一緒に写真を撮ることができ、良い思い出になりました。男性議員は配偶者と一緒に写っている人も多いのですが、参議院で夫と写っている女性議員は私が初めてなのだそうです。
2.事実婚の夫、娘、友人たちが支えに
わかりやすいように普段は夫と言っていますが、私たちは事実婚なんです。彼とは大学の同期として出会い、ともに弁護士になりました。事務所は別ですが、親友のような存在で、議員になってからも家庭内ブレーンかつ強力な応援団として、支えてくれています。自宅でいろんなテーマで議論しています。「この問題をどう見るか」とか、「この法律は修正した方がいいのか」とか。
娘もまた法律家の道を選びました。娘はいつも選挙になるとショートメールで「瑞穂ちゃん、頑張って」と送ってくれて、それが本当に力になるんですよね。
私はたくさんの方に支えられてきました。最近の選挙では、応援してくれる若い人も増えました。「福島さんは昔から選択的夫婦別姓とか、セクシュアルハラスメントの裁判をやってくれてたんですね」と声をかけてくれている学生さんも増えました。
数十年、変わらぬ友情のもと、一緒に活動してくれている仲間たちの絆は強いです。私が原告でもある「安保関連法違憲訴訟・女の会」とか、3.11の東日本大震災後に結成した「脱原発をめざす女たちの会」とか……。職業やバックグラウンドはバラバラなんですが、共に闘ってきた同志たちです。
3.女性問題への目覚めと就職差別。弁護士を志す
私は議員になろうと思ってきたわけではありませんでした。中学校の時は小説家かジャーナリストか、弁護士になりたいと思っていました。当時、同級生の男の子に「小説家はよほど才能がないと食べていけないよ」と言われました。また、小学生の時、公害裁判を担当している弁護士のニュースを見て、弁護士に憧れるようになっていたのですね。
父は私に、「女性も資格を持って一生働くように」という教育をしました。父は父(祖父)を亡くしていて、祖母が働いているのを見てきました。また父自身が会社員として働く中で、当時は男女雇用機会均等法もなく、女性が差別を受けているのを目にしてきたそうです。だから「一生食べていけるように、資格を持って働くように」と中学・高校のときにたたき込まれました。
高校時代には女性解放運動家の平塚らいてうさんの本や伝記を読み、「日本にもこういう女の人がいたのだ」と感動しました。1975年、19歳の頃にメキシコシティであった「世界女性会議」が大きく報道されていました。
東大法学部に進学。当時法学部は650人、女性は14人しかいませんでした。大学時代は裁判問題研究会というサークルに属しながら、他の学部の同級生たちと女性にまつわる問題の勉強会もやっていて、シンポジウムも企画しました。
女性問題を突き詰めていく中で、一人の女の子としては当時、ボーイフレンドとどういう関係を作っていくのか、結婚届を出すのか、名前をどうするのか、何を大切に生きていくのか、悩みや葛藤もありましたね。
実は就職に苦労したんです。東大法学部を卒業しても、女性はすんなりと職業につけなかった。「女子も可」の求人を必死に探して民間企業の就職試験を受けたこともありましたが、不合格。男女雇用機会均等法の制定前で、募集は「男子のみ」ばかり。短期間ですが、喫茶店でアルバイトをしたこともあります。
やはり初志貫徹だ。司法試験を受けて、弁護士になろう。そう心に決めたものの、司法試験は、大学入試よりずっと大変でした。
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